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カウンセラーの対談「第3回 吉福伸逸氏、向後カウンセラー対談<後編>」

 第4回 吉福伸逸氏、向後カウンセラー対談<後編>

吉福伸逸氏プロフィール

吉福伸逸氏著述家、翻訳家、セラピスト。早稲田大学文学部を中退し、ボストンのバークレー音楽院へ留学。ジャズ・ベーシストとして活躍後、カリフォルニア大学バークレー校にて東洋思想やサンスクリットを学ぶ。
(株)C+Fコミュニケーションズ、(有)C+F研究所を創設。
日本に初めてニューエイジ、ニューサイエンス、トランスパーソナル心理学などの分野を体系的に紹介。著書に『トランスパーソナルとは何か 増補改訂版』(新泉社)、『トランス パーソナル・セラピー入門』(平河出版社)、翻訳に『意識のスペクトル』(春秋社)、『無境界』(平河出版社)、『タオ自然学』(工作舎)等多数。1989年以降、ハワイ在住。

 

インタビュー後半

吉福: (クライアントさんを)操作する必要は全然ない。
例えば僕が攻撃的な方と対応しているとして、相手の人が、ぎゃーぎゃー非難し始めたとしますよね。
僕はまず一言も弁解もしないですよね。

向後: 弁解しないっていうのは、そうですよね。

吉福: 一言も弁解せず、ただ相手のぎゃーぎゃー言ってくる、言葉が立ち上がってくる場を作るわけですよね。そういう僕もいるから。
で、僕の中では「こっちの勝手でしょ」っていうのがあって。
「それが影響を与えるとしたら、あなたも私に影響与えてるんですよ、お互い様でしょ」と。言葉にはしないけど。

向後: そのことが、何もしなくてもだんだん伝わっていくわけですね。

吉福: 言葉にする必要はないんだよね。
過剰反応さえしなければ。そういうことを僕は言っているわけですよ、「何もしない」こと。

向後: 「道場に座る」ってやつですね。

吉福: 「道場」っていうのは命の原点ですから、人全てがいるところなのね。
道場にさえ座ってしまえば、相手がどう反応しようとも、暴れまくろうとも、何しようとも、こっちが道場から出て行かなければ、もう、確実に伝わります。

向後: 確実に変わっていくんですよね。

吉福: 変化が相手の中に起こってきますね。

向後: 最悪なのはね、乗っかっちゃうことですよね。

吉福: そういった人が展開する世界を、僕は「メロドラマ」と呼ぶんですよ。
メロドラマをね、ただただ冷静に見つめているんですよ。

向後: どういうことですか?

吉福: メロドラマっていうのは、ドラマティックなんですよ、だいたい。いろんなことが起こるんですよ。

向後: そうか、わかりました。例えば、「私は傷つけられた被害者だ。
だから、人を救う職業に携わるセラピストは、自己犠牲をしてまで、私を助けなければならない」というのが、その人のメロドラマなんですね。

吉福: そう。本当はそういう人だけではないですよ。世の中全ての人、ほぼ。

向後: そうですね。

吉福: テレビなんか出ている人も全部含めて。全部自分のメロドラマを展開している。
メロドラマは、それはドラマティックで面白いかもしれないけど、そんな事には目を向けず、奥底に沈潜している静かな所に目を向けておくと、気が付いていく人もいますよね。

向後: そうですね。メロドラマの根底には、なにかもっと、修飾されていない情動があるわけですね。
例えば、先ほど僕が挙げた例では、表層の「私は、被害者だうんぬん・・」という内容の奥底に、深い悲しみがあるかもしれないし、「私をちゃんと受け入れて」という無条件の愛を求める気持ちがあるかもしれない。
それなのに、逆にこっちが慌てちゃって、表層のメロドラマの内容に乗っちゃって、「そうだ、セラピストだからこの人を何とかしなきゃ」と思い、しかし、どうしてよいかわからず、どんなアプローチもうまくいかず、あげくのはてに、そのクライアントさんが「死にたい」って言ったら、「どうしよう、どうしよう」ってセラピストがパニックになってしまったりすると、もう収集つかなくなっちゃいますね。

吉福: 収集つかないよね。それを求めてるんだもん、相手が。
あなたの前でメロドラマを展開するというのは、あなたにその役の1つをやってほしいんですよ。

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向後: それは、セラピストも、でしょ?

吉福: 僕全然、クライアントとセラピストを区別してないんですよ。人間全ての事を言ってるの。

向後: 人間全てですか。わかりました。

吉福: 人全てのことを言ってて、それをセラピーに適応していくとどういうことになるかというと、クライアントの方は確実にメロドラマを演じてるわけですよ、自分が主役のメロドラマを。わかりますよね、それ?

向後: すごく良くわかります。

吉福: 自分で主役のメロドラマを演じているのを、どういうふうに展開していくかというと、主役からサブに移り、サブから端役に移り、端役から通行人に変わり、最終的にはメロドラマの脚本家になっていく。
脚本家の立場に置いていただければ、メロドラマは放っておいても終演していきます。
その人を中心としたメロドラマはね。

向後: そうですね、脚本家ですね。

吉福: 全体像を見るということですね。Script writer(脚本家)になる。
Script writerになれば、いかにそのメロドラマがつまらないドラマだったのか、それから、どのメロドラマも同じ筋書きだってことが分かってくるわけですよ(笑)

向後: 石原裕次郎(映画俳優;数々の映画に主演)が、まずは高品格(映画俳優;脇役が多い)になって、最後には鈴木清順(映画監督)になるってことですね(笑)。

吉福: そうそう、まず最初は高品格さんになって(笑)。
実感のある言葉ですね。伝わるよね、今のでね?

向後: 伝わると思います。

吉福: だから、病理的な人の話では、全然ないんですよ。

向後: それで、逆のことが起こってるような気がするんですよね、日本のセラピーの現状を見てると。 いわゆる、Co-miserateっていうかね、お互いみじめになるっていうか。 「私たちかわいそうよね」「そうよね、かわいそうよね」のところで、メロドラマが増殖していくようなところが・・・。

吉福: そうだよね、要するに、なんでも受け入れてウンウンって言うの、アクティブリスニングってそういうの、やめましょうよって。

向後: そうですね。本当に思っていないのに、「ウンウン」は、最悪ですね。

吉福: そんなことをやっているとね、やりながら同時に、今おっしゃった「互いがmiserable(みじめ)になっていく」っていう世界を作っていきますからね。

向後: そうですね。どんどん、どんどんドラマの中に入って行ってね。
見てるとね、気持ち悪くなっちゃうんですよ(笑) 。こんなこと言ったらヤバイかなと思うんですが(笑)。

吉福: わかります、その通りだと思いますよ。
よく僕向後さんに言ってるじゃないですか、ドラマの内容は関係ないんだって。プロセスとコンテクストですよって。
以前のセッションでもあったじゃないですか。
参加者の人がパニックになって倒れた時、僕は、まったく無反応だったでしょ、僕。あれなんですよ。

向後: 僕らは、焦りましたけどね、倒れた時。

吉福: 僕何とも思わなかったんだよね。それなんですよ。

向後: そこはね、あの時ものすごく学びましたね。
ああ、そうだと思ったんですよ。要するに、あそこで僕の中で起こっていたのは「あ、なんとかしなくちゃいけない」。

吉福: ケガしているかもしれないし、と思ったわけですよね。
しょうがないじゃない、そんなケガしたって、本人が自分でやったことなんだから。

向後: まあ、そうなんですけど(笑)。
結果的に僕がやっていることは何もならなかったわけなんですよ、クライアントさんに。
だいたい、あとから思い出してみれば、その方は、ちゃんと受け身の姿勢で倒れているわけで、けがのしようがない・・。
ところが、僕らときたら、「あぁどうしたんだろう、大丈夫だろうか」って、焦ってるわけなんですよね。

吉福: 内容に反応したんだよね。

向後: そうなんですよね。

吉福: それはプロセスが勝手に展開してたんですから。
僕の反応を見てたらわかるでしょ、ほぼ微動だにしないでしょ。

 

向後: 動いてたのは周りだけで、がちゃがちゃと。

吉福: それを見せようとしてやってたわけ。
これが1人のセラピストの中で起こらなきゃいけないことですよ、って。根っこで。

向後: そうですね、あれは深かったですよね、非常にね。
いや、いろいろ気づきましたよ、あれは本当に。
自分の中の繰り返している傾向に気づきました。
「なんとかしなきゃ」っていう過剰介入の傾向にね。

吉福: セラピスト対象のセッションなんかで、そういうことがあったりすると、自分が失敗したことで、あたふたして、後で言い訳しに来る人もいるけど、相手にもしないよ。

向後: あぁ、そうなんですか

吉福: 僕はほら、評価しないから、いちいち。

向後: そうですよね。ちゃちゃは、入れますけどね(笑)

吉福: ああ、それはもちろんね(笑)。
こっちの機嫌が悪かったりするとね(笑)。

向後: あれはすごく勉強になったというか、パッと世界が変わったような体験で。
いかに動かないのが大事か、っていうのがね、実感できました。

吉福: 僕、時々言うじゃないですか、「目の前で殺し合いが起こっても動かない」って。

向後: そうなんですよね・・・そういう覚悟が必要な時ってありますよね。

吉福: ありますよ。あらゆる瞬間がそうだと思うこともできるんですよ、人生の一瞬一瞬というのは。

向後: 突き詰めればそうですよね。

吉福: 突き詰めればね。
で、実際に、向後さんがおっしゃるように、必要な時って起こってきますから。「自分を捨てる」っていう。
「あげてしまう」とも言えるし。

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向後: 言うは易しですけどね・・・相当、なんというか、いや、大変ですよ。

吉福: 大変ですよ。考えようによってはさ、あの場の責任者は僕なわけですよね。
だから、そういうことを考えて、社会の事をふと考えたらさ、あれで彼女が死ぬとか激しい後遺症を持つなんてことが起こったら、社会的な非難を十分に浴びる立場にいるわけですよね。
そういう風に考えが行ってしまわないっていうことなんですよ。

向後: それは、一瞬たりとも考えないってことなんですか。

吉福: 一瞬たりとも考えない。浮かんでも来ません。
でも、馬鹿じゃないから。知らないわけじゃないわけじゃないんですよ。
そういうことは十分に起こりうる。医療でもいっぱい起こるじゃないですか。
手術上の失敗であるとか、そういうことが起こるとさ、やっぱり社会的な責任に問われたり、実際に罪に問われたりしますよね、社会の中で。

で、そうすると、じゃあこんなことで罪に問われたら、誰も新しい実験的な治療はしなくなりますよ、って医学界から出てくる言葉ですよね。その辺が最大の問題。そういうことじゃないでしょって。

向後: 全く考えないっていうのは、すごいですね。

吉福: 浮かんでこないんですよ。
そういうことを全く考えてないわけじゃないですよ、前もってそういったことが起こりうるっていうのはしっかりと熟慮された上で、その現場では考えない。出てこない。
良く言うじゃないですか、ジャズミュージシャンの人はね、理論は知る必要はないかもしれないけど、理論を知っても、理論のことを頭の中に浮かべて音楽なんか演奏なんてしていませんよ、っていうことですよ。

向後: そういうことですね。僕の経験の中ではね、過去のそういう危機的な場面で一瞬浮かんでましたね。
やっぱり、これでヤバいことがあったら、これで全責任が僕に・・・って、本当にほんのコンマ何秒だと思うんですけど、フラッシュバック的な感じで浮かんで来たんですけど・・・

吉福: でもそれは、自然ですよ、普通の人間で。

向後: でもそれは、一瞬のことで、その時に思ったのが、覚悟っていうかね、「それはそれでもう、全部引き受けるよ」っていうところに行かざるを得ないなって。

吉福: いや、もう、そこに居ないと、究極的なセラピーはできませんよ。

向後: ですよね。だから、何か起こったらもう、しゃあないわけだし。
もちろんそういうことが起こらないように前もって準備する必要は、それはあるでしょうけど、ある程度はね。
それでも防げないことが・・・

吉福: 防げないことだって起こりますから。

向後: 起こります。防げないことがある時に、こう、どしんと構えているというか、道場に座る。

吉福: 道場に座ってれば大丈夫。

向後: それだったら大丈夫なんだなぁ、というのを、時々感じるんですよ。

吉福: 事態を悪い方向には持っていかないんですよ。
事態は行くべき所には行きますよ。行くべき所には行くけど、それをさらに悪くするということには行かない。

 

向後: 行かないですよね。必ずそのプロセスが始まって、収束して行くなっていうのは思います。

吉福: そうでしょ。必ずプロセスが始まったら収束するでしょ、そこに座っていればいいんですよ。

向後: だから、なんか不測の思いがけない事態が起こった時っていう、その時がマキシマムな気がするんですよね。
で、そっから例えばセラピストが、セラピストじゃなくてもいいんですけどね、近くにいる人が、道場に座るという感じで、そこにずんっといればね。
そのマキシマムから必ず落ちてくるというような感覚がありますね。

吉福: だから、クライアントとセラピストという、こういう対比の中で考えていくとさ、要するにクライアントの症状そのものが最も激しくなっている時ですよね。
マキシマムなものを展開している時に、その時のセラピストの心の奥底の反応なんですよ。それが問題なんですね。

なぜかというと、病状次第ですけれども、一般的に統合失調症の方であるとか、極端なボーダーラインの方なんていうのは、一見表面をみて僕がどーんと座っていて何も起こってない、何の反応をしてないように見えても、僕の心の中は波立っていたら、これは、確実に感じ取りますから。

向後: 敏感ですからね

吉福: ええ。心の中が波立ってない、っていうのが大切なんですよ。
一見何の反応もなくじーっとただしているように見えても、この心の中の波立ちが問題なんですよ。これが最も難しいところです。

向後: そうですね。

吉福: 一見何の反応もしていないように見えることを「演じる」ことができる人はいると思うんですよ。
でもそれは通用しない。

向後: それはもう確実にバレますよね(笑)。
セラピストなんかより、はるかに敏感ですもんね。

吉福: そうですよー。彼らの方が遥かに鋭敏で、感性が高いですよ。

向後: セラピストが「いかにごまかさないか」っていうことですよね。

吉福: だから、感性の低い人が感性の高い人を治すことなんかできるのか?と僕は思うんですよね。

向後: それは、非常に難しいんじゃないでしょうかねぇ。

吉福: さっき向後さんのおっしゃってた、感性の高い人の展開するメロドラマに、感性の低い人がくっついてやっていくと、たまらなくなるでしょう、感性の低い人は。
あまりのことに。メロドラマが急展開するから。

向後: 大変ですからね。

吉福: でも、もっとおかしくなると、「おかしいおかしい」って、相手のことを病理だとジャッジすることが、どんどん始まっていくわけですよね。

向後: そうですよね。

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吉福: だから、僕もようわかりません。

向後: はい?

吉福: いや、僕もようわからないです、何がなんだか(笑)わかる?
統合失調症って何だって言われた時に、別におかしくないって思うんだよ。

向後: そうですね。

吉福: 別に・・・どうってことないんですよ。
勝手にメロドラマやってますから。

向後: 最大級のメロドラマですね。

吉福: まあメロドラマがほしいわけなんだけど、本人にとっては。
僕にとってはさ、単なる繰り返しなんだよ、反復・反復・反復・・・ 世界中がそれやってるんだもん。正常だっていわれる人も。
何も変わらないですよ。

向後: まあそうですよね。

吉福: 僕は内容には目を向けないって言ったでしょ。内容が少し激しいだけなんですよ。

向後: 確かにね。

吉福: そうするとさ、何がなんだか僕はわからない、区別がつかないんですよ。

向後: 僕が統合失調症の人とセラピーをやっていて感じるのは、表現形態は確かに、CIAが出てきたりUFOが出てきたり・・・

吉福: いくつかのパターンが存在していますよね。

向後: だけど、その根底に流れているものっていうのは、恐怖だったり、そういったものの表現でしょう。

吉福: 表現です。我々が持っているものでしょ。

向後: 僕らは違う形で表現しているけれども、彼らはああいった形で表現している。

吉福: あの手の表現は、社会が受け入れられないんですよね、家族に始まり。
それが僕は良くわからないんです。だから僕は良くわかりません、どこに境界線があるのか。

向後: なるほど。

吉福: 問題が内容だから。内容は意味がないから、僕からすると。どんな内容であっても。

向後: そうですよね。その根底にあるものが、本来の扱うべきテーマなんでしょうね。

吉福: その奥にあるものがね。

向後: だから、あれ普通なんですよね。
僕が良くやるのがね、幻聴の人に対するひとりグループセラピーというか、ディスカッションなんですが。
クライアントさんに通訳になってもらって、幻聴同士でディスカッションしてもらうんです。

要するに、一体何を言いたいのかは、まあそれは聞きますけど、そこで何を狙っているかっていうのは、幻聴同士の中でプロセスが起こってくるじゃないですか。それで、その「わ〜っ」ってなってるのが、やがて落ち着いてくるんです。

吉福: 沈静化していく。

向後: 沈静化していくっていう。で、しゃべってるうちに落ち着いてくるだろうという。

吉福: もう、間違いなく。

向後: だから、話の内容は確かに、あんまり意味がないですよ。
例えば「お前は最低だ」と言っている声がいたとして、声が聞こえるということとか、別に最低かどうかっていうのは、どうでもいいわけで。
それによってクライアントさんが恐怖を感じていて、幻聴は、恐怖の表現なんですよね。

吉福: そうです。

向後: それによって恐怖を感じてるように見えるけど、実はクライアントさんにもともとある恐怖がそこに反映されていて。
それを全部カード出しちゃったら、あんまり怖くなくなってきて、ある種ばかばかしくなる人もいるのかもしれないですね。

吉福: それは、常識的な目から見ると、そういうことだと思いますね。

向後: クライアントさんの中に、それが起こってくるんですよね。

吉福: そう、まったく同じ。

向後: 「別に、どうでもいいや」っていう。

吉福: ディスカッションさせるとさ、そういう状態の、いろいろと聞こえる人が何人も集まって話をするとさ、最終的に沈静化していきますよね。
何がわかってくるかと言うと、「同じなんだ、みんな」ということですよね。

内容の区別にかかわらずね、それがすごく大きい。沈静化の要素の1つとしてね。さっき向後さんがおっしゃっていたことに加えるとね。

向後: そうですね。日本でもね、北海道にべてるの家というグループホームがあるんですよ。
そこでは、統合失調症の人たちが集まって、NPOをやってるんですよ。
で、そこで生産活動をしてるんですよ、昆布を作ったり。

そこの入所者の人たちとお話ししたことがあるんですけど、面白いなと思ったのが、「妄想大会」っていうのをするらしいんです。最も激しい妄想をした人を表彰するっていうのをやっていて。

吉福: いいアイディアだと思いますねぇ。

向後: そうなんですよ、非常にね。
なんというか、妄想の恐怖におののくっていう状態じゃなくなっていくんですよね。

吉福: ゲーム化ですよ。ゲーム化することによって、対象化していって、そこでindulgence、耽溺を止めるんですよね。
いいんじゃないですかね、必ず効くとは限りませんけど。

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向後: まぁ1つの方法としてね。
そうですよね。で、統合失調症ね・・・結局結論出ましたよね・・・「わからない」(笑)

吉福: わからない。

向後: どこが他のと違うのよ、という。

吉福: そう、まったくその通り(笑)。という状態なくらい、僕は「居る」からさ。
といってもね、わかりますけどね。

向後: 現象として違いますからね。

吉福: 現象として違うからね。

向後: ただ、そのプロセスとしては一緒だし。

吉福: プロセスは一緒だし、原理は一緒だし、普通の人と。

向後: ええ。だから、セラピーのやり方としてもね、違わない。

吉福: 普通の人と?変わりませんよ。
神経症の人とも変わらないし、心身症の人とも変わらないし、普通の人がちょっとなんか、という時に対応するのとも変わりませんよね。

向後: これが、今回のインタビューの結論かな。

吉福: そうですね。
すごく極限的なこと言っているけどいいよね。

向後: いやー大丈夫です。わかりにくいところは、解説いれますし。
今日は、どうもありがとうございました。

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【インタビューを終えて・・向後善之】

吉福さんのお話は、いつも刺激的です。

吉福さんと私の間で最近よく話題になるのが、セラピストの過剰介入についてです。セラピストは、どうしても、「私が、クライアントさんをなんとかしてあげなきゃ」という気持ちになりやすく、それが、過剰介入につながっていきます。

ある程度の介入は必要です。例えば、イメージを使ったり、認知行動的にアプローチしたり、アートを使ったりします。しかし、それが度を越してしまうと、ろくなことがありません。セラピー技法に耽溺してしまって、セラピストの自己満足に終始するセラピーになってしまったり、自分の考えをクライアントさんに押し付けてしまったり、クライアントさんをコントロールしてしまったりということが起こります。

そうなると、クライアントさんは、セラピストに依存してしまい、自分で考えて解決していくことをやめてしまうかもしれません。それに、そもそも、そういう過剰介入は、セラピストが、クライアントさんひとりひとりが、自分自身のテーマを乗り越えていく力を持っていることを忘れてしまっている状態で起こることです。これは、傲慢な態度であり、セラピストとして最も忌むべき姿勢です。

その結果、クライアントさんをより傷つけてしまうこともあるわけで、我々セラピストが、しっかりと自戒しなければならないことです。

そして、最も重要なセラピストとしての姿勢は、クライアントさんの前に、しっかりとそこにいるということでしょう。インタビューの中で、「道場に座る」という言葉で表わされる姿勢です。セラピストの中に、自己欺瞞や防衛がなく、ただ、クライアントさんといっしょにいるということに集中している状態だと、私は思います。

そのあたりの姿勢については、吉福さんから学ぶところがとても多く、ここ数年、吉福さんのセッションを手伝わせていただき、ありがたく思います。

今回のインタビューは、ワークショップのあいまに、吉福さんに時間をいただいて行ったものです。インタビューの中にも出てきましたが、このインタビュー内容は、表現などを校正して公開しようとも思ったのですが、「てにをは」の修正ぐらいにとどめ、結局、ほとんどそのままお伝えすることにしました。

お忙しいところ、時間を割いていただいて、吉福さんには感謝しております。

最後に、いくつかの用語について、私なりの解釈で解説します。

<悲しみの共同体:前半>

人間の心の奥底には、だれもが持っている共通の基盤があり、そこには、深い悲しみ、喜び、怒り、さびしさなどの根源的な情念がある。その根源的な情念の場を、吉福さんは、「悲しみの共同体」と表現しています。

<自己実現:前半>

個人が、自分自身の内面にある潜在的な可能性を、いかんなく発揮し生きること。私自身の考えでは、自己実現と言われる状態と言うのは、ほとんどの場合、部分的な覚醒だと思います。例えば、インタビューの中で、数学者が、数学の定理を発見する過程を例に挙げて、自己実現という言葉で説明していますが、それは、その分野では、自分自身の潜在的能力をいかんなく発揮しているので自己実現的とも言えますが、全人格的に自己実現しているとは限らないと、私は考えています。

<マズローの欲求の段階:前半>

アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、提唱した概念。 下位の欲求から、上位の欲求へ、生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、尊敬(承認)欲求、自己実現欲求の5段階があるとされている。インタビューに出てくる所属欲求は、所属と愛の欲求に含まれます。すなわち、集団に属したり、仲間から愛情を得たいと言う欲求のことです。

<ペルソナ:前半>

ユンソナではありません。ペルソナです。ユング心理学で提唱されている概念で、社会に適応するためにつけている心理的な仮面を示します。

<共生期:前半>

ハンガリー生まれの精神科医マーガレット・マーラーが提唱した概念。生まれてから数か月の間、子供は自己と他者の区別が十分にできていない。この時期は、あたかも母子一体の感覚が、母親子供の双方にある。マーラーは、この共生期の前に、自閉期があるとしているが、反論もある。

<Co-miserate:後半>

たとえば、「つらいよね」、「そうだよね、つらいよね、私もつらい」などと言いあって、傷をなめ合っている状態。セラピストとクライアントがそうした状態になると、治癒は起こり得ない。

<統合失調症:後半>

慢性の精神病の一種。幻覚、妄想などの精神病的症状が、断続的に長期に現れる。日本では、統合失調症の人たちには投薬治療が主であるが、アメリカでは投薬治療と共にカウンセリングを併用するのが一般的。長期慢性的な病理と言われているが、2〜3割程度は、完全に回復する。

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