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カウンセラーの対談「第3回 吉福伸逸氏、向後カウンセラー対談」

 第3回 吉福伸逸氏、向後カウンセラー対談

吉福伸逸氏プロフィール

吉福伸逸氏著述家、翻訳家、セラピスト。早稲田大学文学部を中退し、ボストンのバークレー音楽院へ留学。ジャズ・ベーシストとして活躍後、カリフォルニア大学バークレー校にて東洋思想やサンスクリットを学ぶ。
(株)C+Fコミュニケーションズ、(有)C+F研究所を創設。
日本に初めてニューエイジ、ニューサイエンス、トランスパーソナル心理学などの分野を体系的に紹介。著書に『トランスパーソナルとは何か 増補改訂版』(新泉社)、『トランスパーソナル・セラピー入門』(平河出版社)、翻訳に『意識のスペクトル』(春秋社)、『無境界』(平河出版社)、『タオ自然学』(工作舎)等多数。1989年以降、ハワイ在住。

 

インタビュー前半

向後: 本日は、セラピストの吉福伸逸さんをお迎えして、セラピーの考え方全般と、それから、吉福さんがとりくまれている統合失調症などの、いわゆる治癒が困難と言われている疾患に対するアプローチについてお聞きしたいと思います。
吉福さん、よろしくお願いします。

吉福: はい、それじゃあ、はじめましょうか。
今、向後さんが言われたことなんだけど、自分の経験をベースとして言えば、たとえば統合失調症に対して、なにができて、どうすれば、その当人自身が内なる解離を強く感じて、焦燥感の中で生き続けると言うことから解放するということは、可能だと思いますね。

しかし、解放することによって、社会の要請にこたえるような人間になるのかどうか、あるいは、社会の要請にこたえることに意味を感じるような人間になるのかどうかについては、僕は、あのー目を向けていないんです。そういうことに目を向ける必要性を、僕は感じておりませんので。

向後: いきなり、過激ですねー。(笑)
セラピーを、その前提で、進めていくということですね。

吉福: その前提で考えていかないと難しいと思うんですね。

向後さんも経験なさっていると思うのですが、セラピーの全体的な傾向というのは、二段階あると考えていただければいいと思うんですね。
ひとつは、社会の要請に機能できなくなって自らが激しい苦しみの中にいる人が、社会の要請にこたえられる状態になること。
ということは、社会のルールにのっとって、社会的に機能するような状態になることを社会が要請しているわけですよ。
精神的な問題を抱えている人たちに対して。
その要請があるために、問題を抱えている人たちは、その要請にこたえようとしているわけですよね。
だから、セラピストやカウンセラーのところに来たりするわけですよね。
だけど、それでいいんだろうかという疑問が、僕の根っこの中にあるんですよね。

向後: そうですね。
たとえば休職している人を職場復帰させるとか、ひきこもりの子を学校に返すとか・・。

吉福:そうですね。それはさ、アルコール依存にせよ、薬物依存にせよその他の精神疾患にせよ、結局そうですよね。それはさ、社会の要請がそうだからこそ、その中で苦しんでいる当人が、その要請にこたえようとして、苦しみを抱えて行って、症状そのものがさらにひどくなっていくという状況があると思うんです。

ですから、僕なんかは、社会の要請をいったん横に置いておいておきましょうよと思うんです。それが、もうひとつの段階のセラピーですね。

向後: そうですね。

吉福: そういうもんですよね。

社会からの要請と言うものを横に置いておくと、人間が本来抱えている分離解離が浮き彫りになると考えているんですね。人間と言うのは、分離しているものじゃないですか。

向後: いろいろ分離していますね。

吉福: まず最初に、新生児として生まれて、母と一体化している状態と言うのは、きわめて短いですよね。その後に、母と自分の間に分離があって、自分と他人との間に境界線があるということに気づくということは、子供にとっては、誕生時の苦しみに勝るとも劣らない一種の巨大な、なんて言うんですか、大惨事なんですよね。わかりますよね?

向後: わかります。

吉福: だからこそ、我々は、その後、自我と呼ばれるようなものを発達させて、分離にこたえる仮面をかぶっていくわけです。
そのことが、人間の中に激しい分裂を固定化させて、それにはたと気づいた人たちが、精神的におかしくなっていくし・・。
自分が気付かないままだったらいいんだけれど・・。

気がついてしまいますと、その分離を何とかしようとすると、要するに社会から見ると、反社会的な行動に走る方向すらも見られてしまうわけですね。

ただただとじこもりというか、なんといいましたっけ・・。

向後: ひきこもりですか?

吉福: そうそう、ひきこもり。
ひきこもりという状態なら、もう僕はやっぱりその方々が、今言ったようなことを理解しているのかどうかわからないけれど、根源的な分離に対する感触ですよ。
僕は、私は、社会の要請にこたえられない。わかりますかね?

向後: わかります。社会からの分離ですね。

吉福: それは、アクティングアウトのひとつの形態なんですよ。僕は、非常にそのマイルドでやさしい気弱な反応なんだと思うんですけど。そのためにひきこもりと言う形が存在しているんだと思うんですがね。それが逆に出て行ってより激しく外に向かう場合もあると思いますけど。

向後: 反社会的な反応ですね。

吉福: そう、反社会的なね。
犯罪なんていうと、すぐその背景に精神障害がほのめかされたりするんですけど。裁判所なんかでもよく言われていますよね。
精神的におかしいと犯罪者が、罪に問われないってことあるじゃないですか。

向後: 心神喪失状態とか。

吉福: そうそう心神喪失状態。
僕は、もうなにか犯罪が起こるたびに精神的な問題が背景にあるなんて言われるたびに、「あー、またこれで、社会そのものに、精神的な障害というのが反社会的なもので、犯罪で、罰せられる対象であるかのように扱われている」と思ってしまうんです。

向後: みなさん「そういうつもりではない」と説明されるのですが、今、吉福さんがおっしゃったような誤解(精神的な障害というのが反社会的なもので、犯罪で、罰せられる対象であるかのような誤解)のもとにテレビなんかの報道を見られている方はいらっしゃるでしょうね。それは、問題ですね。

吉福: 僕は、それをなんとか変えたいと思うんですよね。

 

向後: さきほど吉福さんがおっしゃった、セラピーの二段階ですが、ひとつは、社会のニーズに合わせていくという形のセラピーで、もうひとつは、そうしたニーズにこだわらないセラピーということですね。

最初の段階のセラピーについてなんですが、セラピストたちの中にも、誤解があると思うのだけど、たとえば、天職という言葉があるじゃないですか?

吉福: 天の職の方ですね。

向後: 例えば、「天職を見つけるというのが、自己実現」みたいな誤解が、一部にあるんじゃないかと思うんですね。

吉福: うそだぁー。

向後: そう言う感じの雰囲気があるんですよ。例えば、いわゆる「自分探し」をしている人たちや、それをサポートしているセラピストなんかにね。
あれね、すごい違和感を感じるんですよ。
なんだか、職ありきみたいな感じでね。職と言う枠組みの中で、自己実現というものを限定してしまおうとするみたいなことが、時々見受けられるんです。自分探し=天職探しみたいなね。
「そうじゃないだろ?」って思うのですが・・。
場合によっては、職と言うのは、お金を稼ぐだけでいいというのだってありだと思うんですよ。

吉福: 生きていくだけのね。

向後: 生きていくだけのね。

吉福: お金が介在しないでそういう生活できる場だってあるじゃないですか?

向後: 例えば?

吉福: 例えば、どっか耕すところ行ってさぁ、畑でも耕しながらさぁ・・。遠い離れ小島に住むとか。そういう人もいるじゃないですか?

向後: それもそうですね。
それから、たとえば、17世紀辺りまでの数学者なんか、まったくお金になってないじゃないですか?まったくね。あれは、職業と言うよりも趣味ですよね。

フェルマーの定理を作ったフェルマーさんなんかも、たぶん趣味でやっているわけじゃないですか?プロじゃなくて、アマチュアですよね。それでも数々の実績をあげて、それで、とても満足しているわけです。

吉福: それで充分自己実現しているわけですね。

向後: だから、職イコール自己実現なんていうのがね・・。

吉福: そんな風潮あるの?

向後: なんとなくですね。全部じゃないけれど、そんな感覚を持っている人たちがいると思うんですよ。「天職をみつけよう!」っていう言葉のなかに、天職を見つけることが自己実現みたいな意識があるように思うんですよ。その結果、自己実現のための職探し・・なんて感じになってしまうことがあるんです。
でも、実際には、そんな天職がみつかる、つまり、職と言う方向が自分の自己実現の方向と一致している人なんていうのはまれなわけで、結局は、「これが、僕の天職で、この方向で行けば、自己実現できるんだよね?」と、自分をむりやり納得させていくということがあると思うんです。

本当はね、そういう人たちのすべてとは言わないけれど、かなりの人たちが、自己実現というより、社会の中で居場所を探しているわけだと思うんです。それ自体は、けっして悪いことではないのですが・・。

吉福: それはさ、非常に原初的な部分で、人間性心理学で言えば、ベーシックなベーシックな段階の充足感にしかつながらないじゃないですか?

向後: マズローの欲求の段階ですね。

吉福: そう、マズローのね。所属意識ですよね。自己実現でもなんでもないですよね。

向後: そのへんが、なんとなくごちゃごちゃになっているような状況があるように思いますね。ベーシックな段階の充足感を求めるのは、それはそれで重要なことですが、そうした欠乏欲求と、成長欲求がごっちゃになると変なことが起こると思います。
そうなると、まずは、社会に戻すのが一番いいんだ、そこから始まって、次は自己実現だという感じになってしまう。

吉福: それは、強く感じるんですよ。日本にいるこの5〜6年、ハワイで十数年過ごした後に、帰ってくるたびに、常に、自分の中で、なんだろう、なんでこんなことしているんだろうと思うんですね。
僕がみんなに示そうとしている人間像と言うのは、皆が求めているものとは違うと言うことがすごくはっきり僕の中あるんですね。
でも、(日本の社会の中に)どうしても社会的に機能していく人間になっていかないと、まず社会が満足しないし、社会が満足しないと言うことをベースにして、本人が満足しないということがあるんですね。
僕は、それではおかしいとすごく感じている。

まあね、向後さんが事務局長をおやりになっている、なんとかという学会(日本トランスパーソナル学会のこと)ではね、昔僕がやっていたんですけど、基本的にまず健全な自我を確立するなんていっていましてね、健全な自我を持つと言うことは、社会的に機能すると言うことで、つまり、自らを欺く力をしっかり持つということなんですね。

向後: ははは、いやー、僕らは、「自らを欺く力をしっかり持つ」なんて言ってませんけど(笑)。

吉福: でも、あのほら、明らかに、自らをはっきりと欺いて生きて、なんの疑問も感じないことが健全な自我を持つということなんですね。
ケン(ケン・ウィルバー;トランスパーソナル心理学の理論家のこと)なんかが言っているのは、そこを通過しないとその先には行けないって話があるじゃないですか。僕はねぇー、そこにすごく大きな疑問を感じているんです。そういうこっちゃないですよね。

向後: そうですね。

吉福: 人と言うのはね、社会的な動物であると言うことは明らかですけど、その社会的な動物であると言うことを絶対視する必要ないほど、我々は、もっと大きな可能性を秘めていると僕は思っていますので。その点は、常に、なんかしっくりこなくて。

向後: さっきの話ですと、要するにペルソナを作っていると言うことになっちゃいますね。

吉福: そうそう。ペルソナをしっかりしていれば、外に向かっては、大丈夫。(笑)

 

向後: 自己実現と言う名のペルソナをつけているってこるみたいなね、感じになっちゃいますよね。

吉福: そうですね。

それがくるのが、ようするに、原初の分離の時に作り上げられたことだと思うんですね。原初の分離に、しっかりと目を向けて行かないと・・。それは、運命的にわれわれが定められているこというふうに、僕はとらえているんです。それを乗り越えていくことができると、僕は思っているわけですよ。乗り超えたらどんな人間になるのかは、それは、何の保証もないけれど、乗り越えることは、不可能ではないと、僕は考えているんですよ。

で、極端な状態に直面すると、人はさ。極端な状態というのは、受け止められないような、サバイバルさえ不可能な状態にわれわれが直面したり、あるいは、歓喜のきわみ、エクスタシーのきわみというもの、極端な、そういうエモーショナルな反応をする状況に直面すると、どんな人であれ、人は、きわめて、画一的な反応をするんですよ。

向後: 例えば、どういうことですか?

吉福: 例えば、サバイバルが危ない、生き残れないかもしれない状況に追い込まれた人は、なんとか生き残ろうとする反応をする。

向後: そうですね。

吉福: 中には、早くあきらめる人もいますけど。

向後: とじこもる人もいますよね。

吉福: それも、ひとつの、とじこもるという形の要するにサバイバルの方法じゃないですか。

向後: だんだんやられていくのは、確実なんだけど・・。

吉福: 確実なんだけど、とにかくひきこもって、なんとかそれを精神的に受け止められるようにしようと・・。そういう画一的な反応って、人間は、あるじゃないですか。そこに、人間としての共通性を見出していこうと。そこが人間としてのひとつの究極の姿なわけですね。だから、いのちを失うと言うところにいったとき、ひとつの人間としての本性が出てるわけです。Flight & Fight ってあるじゃないですか。

向後: 逃避‐闘争反応。

吉福: そう、逃避‐闘争反応。だれでもそうなんですね。その反応は、逃避のしかたも違うし、闘争の反応も違いますけど、基本的に同じメカニズムで反応しますよね。それを見た時、僕は、あー、ここに、人間としての原点があるんだと思うわけですよ。
それはさ、やっぱり、社会性の問題、基本的に自他の問題ですよ。
自らと社会、自らと世間との対峙の問題で、それを癒す方法があるのか?ということなんです。そういう画一的な反応が存在していると言うことはですね。

なぜそうなるのかというと、だれもがそうなんだということですよ。そういう状況になると。
追い込まれる状況と言うのは、自然災害とかそういうことを全部含めてですよ、世界からの襲撃なわけですよ。基本的にはね。
世界そのものが、それが、パーソナライズされていると思いますから、僕はそこに、その相手、襲ってくる自然界そのものにすらも、自然界そのものが、同じ状況に置かれると、逃避-闘争反応をすると言うことで、共通項が見出されるわけですよ。
相手が特に人間であった場合、それが集合的であっても個人であっても、相手の間に共通の画一的な反応が存在するわけですよ。画一的なエモーショナルなものが秘められているわけですよ。
わかりますか?

向後: わかります。

吉福: ということは、そこに共通の基盤、コモングラウンドがあるわけですよ。そのコモングラウンドにしっかりと目を向けさえすれば、われわれは、傷を、自らの力で知らず知らずのうちに癒していける力を持っているんだと思いますね。

 

向後: 今ね、そういうシステムがうまく働いていないと思うんです。

吉福: まったく働いていないと思いますね。
その共通の基盤なんかを、僕はさ、「悲しみの共同体」と呼んだりとか、あるいは、悲しみの共同体だけでなくてもかまわないんですよ、なんともいえない繋がった部分、人が直面した時に必ず共通の反応をする部分ってありますよね。悲しみだけじゃなくてもいいんですよ。怒りでもいいんです。喜びでもかまわないですよね。そういうのがありますから、そこに目を向けていきさえすれば、分離がなくなるわけではないですけど、人は十分に、分離の幻想による圧倒されるような恐怖感からは、しだいに解放される。
ちょっと飛躍があったかな?伝わりますか?こうやって面と向かって話しているとわかるんだけど・・。

向後: わかりますよ。ただ、一瞬読者に伝わるかどうかってことが頭によぎりましたが。(笑)

吉福: それが、最大の問題なんですよ。そこは、向後さん、うまくまとめて・・。(笑)

向後: 共通の基盤についてですが、共生期なんかに見えますよね。ほんの生後6ヶ月程度のことなのですが、要するに共生期という、母子がまったく共通の基盤を持つ時期というのがありますよね。

吉福: そうだね。他を自覚しはじめると言うのは、そのあとから始まりますね。

向後: そこから、苦悩が始まってきて、あるいは、自分をごまかすということが始まってくるわけですね。でも、その分離の根底には、共通の基盤があって、それは、共生期に経験しているというわけです。

吉福: そう、(自他の分離はあるのだけれど)その根底にある共通の基盤に目を向けようということです。
共通の基盤として、たとえば、僕と向後さんが、しっかりと、あなたもそうだ、ぼくもそうだという、彼や彼もそうだ、これまで敵だと思っていたあの人もそうだというように見るとさ、少なくともモンスターに見えないんですよ。社会がさ。

社会そのものも、個人もそうだし、集合的なものもそうなんですが、モンスターにはならないんですよ。わかりますか?

向後: はい。

吉福: モンスターみたいなことしますよ。集合的になると。
原爆落としたりさ。アウシュビッツみたいなことしたりしますけど。
モンスターと呼ばれるようなことをやる人たちは、そのことに気づいていないんですよ。

向後: たとえば、一般社会の中でも、DVとか虐待とかパワーハラスメントとか、モンスター的なことってあるじゃないですか?
御存じのように、僕は、それにすぐ反応しちゃうんだけど。(笑)

吉福: そうだね。(笑)ははは。

向後: すぐ、反応しちゃうんだけど、最近少し上達しましてね、あんまり反応しないですむようになった、少しですけどね。
最初ね、圧倒されるような感じが来るわけですよ。そうなると、こっちは、もうね、全力を持って戦おうとするんです。
ただ、相手をよく見ると、要するに共通の基盤と言うものがあるし、彼らの中のどこかに自分を見るわけですよ。そうすると冷静に対処することができる。彼らの行為は否定するけれど、モンスター的行為といっしょのレベルで戦わないってことかなって思います。

吉福: 僕なんかのセッションを、見てわかるでしょ?
なにしているのか。

向後: よくわかります。
吉福さんは、そうしたモンスター的な行為をする人たちに対しても、かなりつっこんでいきますよね。

吉福: だって、その人が何をしようとも、そこに自分と同じ基盤があるということが見えてくると、全然恐ろしいとかそういうことじゃまったくなくなるんですよ。
僕は、前景とか背景とかいう話を僕するじゃないですか。前景になにがあろうとも背景がしっかりと繋がっていれば、僕から見るとCommon wealth なんですよ。
それこそが、つまり人と人との間に、コモンなウェルス、富が見えれば、それさえ見えれば、Common wealthさえ見えれば、なにも怖くないんですよ。

向後: そこが見えてくると、モンスターと呼ばれる人たちすらも、自然に変わってくる、っていうことなんですね。

<つづく>

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