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役に立つ心理学コラム「同じ視線で−2(描写する)」
同じ視線で−2(描写する)
前回述べた、従来のセラピーと最近のセラピーの違いをもう少し明確にするために、次の様な例を考えてみましょう。
クライアントA氏は、軽い抑うつ傾向で、セラピーを受けています。彼の自尊心は低く、自分の感情を素直に表現する事が苦手です。ある日A氏が「先週、ばったりかつての上司に会った」と言いました。A氏はその上司との折り合いが悪く、その事が会社を辞めるひとつのきっかけでした。
セラピストが「その時の気持ちはどうでしたか?」と聞くと、A氏は「いや、別になんともありません。Bさん(上司)も昔は厳しい人でしたが、会った時は、にこにこしていました」と言います。ところが、ひざの上に置いた彼の右手は、拳を握っていました。
かつてのセラピストなら、右手が拳を握っている事について、「君の拳は、Bさんに対する今だにおさまらない抑圧された怒りを意味しており・・・」等とセラピスト側の分析や解釈の説明を始めるのでしょうが、今のセラピストのアプローチは違います。現在のセラピストなら、例えば「君がBさんに対してなんとも思っていない事はわかったけれど、君の右手は違う意見を持っているみたいだね?」等とAさんに聞くでしょう。
このふたつのアプローチは、小さいようですが大きな違いがあります。前者はセラピストが主導で、解釈や分析をクライアントに伝えるやり方です。一方、後者のセラピストがやっている事はあくまで描写であり、その解釈はクライアントにまかされているのです(セラピストは解釈や分析をしているかもしれませんが、その結果を一方的にクライアントに伝えるのではなく、クライアント自身で考えてもらっています)。
セラピスト=教える人、クライアント=教えられる人という図式は薄れ、そこにはセラピストとクライアントが一緒に考えるという姿勢があります。一緒に考える(同じ視線)といっても、セラピストとクライアントは違う個性を持っていますから、気づくものも違ってきます。
例えば、一緒に原っぱに座ったとき、ひとりがおしりが濡れてしまう事ばかりを気にしている時に、もうひとりは、すぐそばに咲いている珍しい花を見つける事もあるようなものです。そして、セラピストは、いろいろな事に気づく目を持つように訓練されています。確かに、セラピストは専門家ですからクライアントよりこころに関する知識は豊富です。しかし、今のセラピストは、クライアントに自分の見方を押し付ける事はしないで、「僕は、こういう事に気づいたんだけど、これはどういう事なのかな?」とクライアントに問いかけるのです。
解釈の押し付けと問いかけによる違いは、前者の場合、その解釈は与えられたものであり、そのため頭での理解にとどまりがちですし、また、セラピストの解釈や分析が間違っている場合クライアントの中に不満がありながらも「先生の言う事だから・・・」という理由で無条件に受け入れてしまう事があり得ますが、後者の場合には、クライアントによる「あっ、そうか!」という、自ら納得するプロセスがあります。そして、その体験は、クライアントのものとして内在化し、それがクライアントの精神的成長の契機になります。
前述の例の場合、実際のアプローチは、後者のやり方でなされました。そしてA氏は、はじめて自分が拳を握っている事に気づいたのです。その事に気づいたA氏は驚き、そして、少しの沈黙の後「そうですね。Bさんに対する怒りは、まだありますね」と静かに語り始めました。セラピストの描写が、クライアントの新たな気づきを生んだのです。そしてこの気づきの後、A氏は、自分がそれまで抑圧していた怒りの感情にアクセスする事ができるようになりました。そして、怒りはけっして「悪」として抑圧されるべきものではなく、自然な感情であり、だれにでも怒りを感じ、それを表現する(暴力はいけませんが・・・)権利がある事を理解するようになったのです。
(向後善之)