近代の心理学は、今からおよそ100年前、フロイトによってその基礎が形作られ、それ以降しばらくの間、臨床面では「心の病」
を治す事に焦点が当てられてきました。ヒステリー・メランコリー・精神病等の原因を探り、なにが悪かったのかを研究してきた
のです。
そしてその手法は、ごく大雑把に言えば、トラウマの原因を分析する(精神分析)、不適切な行動を変える(行動心理学)に集約
されます。
この心理学の「悪いところを治す事」のみを目標とする傾向に異を唱えたのが、アブラハム・マズローやカール・ロジャースに代表
される人間性心理学派の人々でした。
彼らの主張は、人間には、元々自分の能力を最大限に発揮しようとする自己実現の傾向があり、その傾向にもっと目を向けるべきだ
と言うのです。ロジャースは、「われわれは、それぞれ、機会さえあれば、自分の個人的力を正しく有益に使う莫大な能力を持って
いる」と主張しました(文献1、P.353)。
人間性心理学の人のこころに対する新たな見方は、心理学の世界に大きな影響を与え、後に、人間性心理学をさらに推し進めた
トランスパーソナル心理学も誕生し、また精神分析学の流れの中から、人間性心理学の考え方を大幅に採用した自己心理学が生まれ
ました。また、今では、臨床心理学(セラピー)の現場においては、どの学派を理論背景に持つセラピストも、程度の差はあれ、
なんらかの形で、クライアントのポジティブな側面に注目したセラピーを行うようになっています。
人間性心理学の中心的概念である自己実現は、「個人の才能、能力、潜在性などを十分に開発、利用する事(文献2)」です。
自己実現した人たちの共通した特徴は、創造性・自発性・勇気・勤勉さであり、彼らは心理的に健康で、自己葛藤が少なく、自己
受容的であり、人生を楽しみ堪能しているとしています(文献1、P.435)。
ただし、よくある誤解なのですが、自己実現は、社会的地位や成功を意味するものではありません。自己実現的人間とは、「平凡な
人間に何かが付け加えられるのではなく、むしろ何も取り去られていない平凡な人間」なのです(文献1、P.434)。
また、自己実現は、それ自身がゴールなのではなく、人の人生の中で絶え間なく続いていくプロセスなのです。
自己実現した人達の多くは、至高体験と呼ばれる、強烈な愛と喜びの瞬間を経験するといいます。
至高体験では、人は、自分の身体と心が完全にひとつになった様な完全な内的統一性や全体性を感じ、強い肯定的感情(自分に
対しても他者に対しても)に満たされます。
また、個人の境界が崩壊し、他者・自然・あるいは全宇宙・神と一体になる感覚や、時間と空間を超越したような感覚を持ったと
報告する人達もいます(文献3、P.132)。そして、その体験を言葉で表すのは、非常に困難だと言われます。
「全宇宙や神と一体感」などと言うと、なんだかあやしげに聞こえますが、マズローの研究により、非常に多くの人達が体験して
いる事柄であることが知られてきました。
この様な体験がそのまま受け入れられれば、その人の価値観、生き方に対して深い永続的な影響を及ぼし得るものになります。
彼らは人生に対する深い洞察を得、まわりの人達に受容的で誠実な態度で接するようになります(文献3、P.135)。
私は、至高体験を引き起こす最も大きな要素は、自己受容であると思います。自分自身を歪めずに見つめ、それをそのまま受け入れ
る事ができた瞬間、人は、その人を形作っている潜在性の源に接する事ができ、そこから発せられる莫大なエネルギーを知る事に
なるのです。
自己受容に至る道は、苦難の連続です。自分の嫌な部分は、だれでも見たくない、あるいは、認めたくないものです。
しかし、そうしたこころの暗部は、はたして無視する事によって排除できるものなのでしょうか?そもそも、本当に邪悪なものなの
でしょうか?
人は、こうした暗部から目をそらす事により、同時に自分の潜在性から目をそらす事になります。そうした暗部は、いくら目を
そらそうとしても、完全に無視できるものではありません。時々、それは、頭をもたげてきて、その人をいいようのない不安や、
深刻なうつの状態に陥れたりします。
実際、至高体験の前に、不安やうつのような否定的感情が先行し、それが超越される事により、自己に対し肯定的に接する事が
できるようになったという多くの報告があります(文献2、P.471)。また、従来精神的な病とされているものの中に、自己
受容、至高体験あるいは、自己実現に至るまでの「生みの苦しみ」である場合が、多く含まれている可能性があります。
止まない雨は無く、雨の後には、快晴が待っているのです。
ところが、快晴の後にも落とし穴があるのです。
次回は、さとりに至るまでの「生みの苦しみ」のプロセスのお話「スピリチュアル・エマージェンシー」をお届けします。
(文献1)フレイジャー、R.,ファディマン、J.(1991)編、「自己成長の基礎知識2」、春秋社
(文献2)マズロー、A.(1971)、「人間性の心理学」、産業能率短期大学出版
(文献3)グロフ、S.,グロフ、C.(1997)、「魂の危機を越えて」、春秋社
