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人生の勝ち負け?

サンフランシスコに住んでいた時、私にとって毎週末のテレビの日本語放送は非常に貴重なもので、毎週かかさず、ほとんど全て
の番組(見れない時には録画してまで)を見ていました(なにしろミーハーなものですから)。
きっと、どこかで日本が懐かしかったんでしょうね。

ある時、「日本の教育を考える」みたいな番組がありました。その番組には、50人ほどの学校の先生達が出演して、その頃話題に
なっていた「学級崩壊」等について討論しておりました。その中で先生達は「これからの教育は、個性化教育だ」という事を口々に
おっしゃっていました。一瞬「ナルホド」とは思ったのですが、少し言いようのない違和感がありました。
番組の後考えたのですが、ひとつは、それまで「協調性」が尊ばれていたはずなのに、ちゃんとした議論が見えないうちに、急に
「個性化」にシフトしたような印象を受けた事です。そして、口をそろえて「個性化」を叫ぶ人たちに「個性」を感じなかったのです。

さらに、個性化教育といいながら、(その番組の中では)なにも具体的な方法が示されていなかった事が気になりました。
本来、個性というものは、外から「ああしろ、こうしろ」と言われなければ、勝手に出てくるものです。なにしろ、人はそれぞれ
指紋が異なるように性格も資質も違います。
要は、今の学生に個性が無いと言うのならば、それは学生の側の問題ではなく、個性を出させない様なシステム(あるいは環境)
自体の問題なのです。ですから、システムを変える具体的な案がないのに「個性化、個性化」と叫ぶ事は、学生達に新たなしばり
を加えるという意味で、かえって「個性化」を阻害すると思われるのです。
学生達は、自分は個性的で「なければならない」と感じ、事によったら、「個性的になるための」マニュアルを求めるようになって
しまうのではないのしょうか? あるいは、ばかばかしくなって、しらけてしまうかもしれません。

実は、この「ねばならない」が、自分が自分らしくある事、すなわち個性化を邪魔しているのだと思います。
もちろん適度な「ねばならない」は必要です。しかし、今の日本では、「ねばならない」の価値観が、学力に代表される非常に狭い
範囲に限定され、そしてそれがあまりに氾濫しすぎているのではないのでしょうか?

子供達は、勉強して良い学校に行かねばならず、おまけに学校でも家庭でも良い子でなければなりません。
さらに最近では、「個性的」でなければならないのです。

母親達は、良き母であるとともに良い妻でもあらねばならず、子供の自主性を尊重しながら、公園デビューをさせ良い学校に行かせ
る様に努力し、なおかつあまり出過ぎない様にしなければなりません。
父親達も大変です。出世競争に遅れてはならないし、同時に会社内の協調性を乱さない様にしなければなりません。そして、それが
達成されなかった時には、自分は「負け組だ」と意識する事にもなりかねません。多くの人たちが「人生に勝ち負けなど無い」事を
頭ではわかっているのですが、それでも日々の生活でなんとなく「勝ち負け」を意識してしまうのが、今の社会なのではないかと
思います。
もちろんそうした生き方とは別個に生きている方々もいらっしゃいますが、今の日本の社会システムの中では、「他人と別の価値観
の中で生きる」のには、大きなエネルギーが必要となります。

「ねばならない」=「Shouldism」の氾濫により、人々は「自分」を失っていきます。それは「自分の」ではなく、「他人の」
あるいは「世の中の」要求に従って生きていく事を強いられているからなのです。
そして、「ねばならない」の世の中を作っている大きな原因は、「減点主義」の、「失敗したら負け」の価値観だと思います。
良い(世間的に「良い」と認められるの意味。本当にその人にとって「良い」のかどうかはわからない。以下同じ)高校に行け
なければ、良い大学に行けません。良い大学に行けなければ、良い会社に行ける可能性は非常に少なくなります。そうして良い会社
に入ったとしても、少なくとも同僚と同じ時期に課長に昇進しなければ、その後の出世は見込めません。

そうした世の中では、人々は失敗を恐れます。「失敗したら負け」の世界では、少なくとも自分が今のところ「勝ち組」に属して
いる事を必要以上に確認しようとして、その意識が歪んだ特権意識になったり、自分達の既得権を必死に守ろうとしたりします。
そして、そのためにグループの利益および安定が最大の関心事になっていきます。

また、グループの安定のためには、少しでも異なる価値観を持つ人達は排除しなければなりません。同時に、だれかが「負け組」に
行かないと、自分は次の段階の「勝ち組」に残る事ができない事を、彼らはどこかで意識しています。

こうした意識は、「いじめ」の温床になります。ある人をいじめる事によってその人が「負け組」に入れば、自分が「勝ち組」に
残る確率がそれだけ高くなるし、価値観の違う人を排除すれば、「勝ち組」の安定は、より強固になるからです。そして、運良く
「勝ち組」に残った人達は、より「勝ち組」の価値観に忠実になっていきます。
一方「負け組」になってしまった人たちは、世の中に絶望し、あるいは、世の中に怨みさえ感じる事にもなります。
ところが、「勝ち組」といっても、ただ自分達が妄想的に思っているだけの事で、「勝ち組」=「優れた人達の集団」ではない事は
例えば、一議員の恫喝に縮みあがってしまう外務省高官の態度を見ても明らかです。
こうした状況に陥っているひとつの原因は、「勝ち組」になるための判断基準が非常に限られている(ほとんど「学力」のみが判断
基準となっている)事です。もっと多くの価値判断基準があれば、世の中はもっと多様化し、「勝ち負け」などは意味が無くなって
いくと思います。

最近の長引く構造不況は、「勝ち組」だと思い込んでいた人たちが、ある日突然「負け組」に転じてしまう事態を引き起こす事に
なりました。こうした事態は、砂上の楼閣のような、単一の価値観に基づく社会システムの矛盾を露呈させたのです。



(向後善之)

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